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私は、適応障害を患った経験がある。
当時の仕事に憤りを感じて転職するも
絵にかいたように失敗。
そこで適応障害で休職。
そのまま退職した経験である。
これだけ文章にするとただの失敗談なのだが
意外にも私はそこから得たものは多い。
正直、そんな軽い経験とは言えなかったので
人前で話すのは簡単なことではないけれど
今はもう十分に過去に向き合えると感じているので
文章にすることにする。
<経歴>
私の経歴をざっとまとめると
①外資系自動車部品メーカー
②国産タイヤメーカー
③学習塾
④国産ドローンメーカー
といった形である。
<思い>
結果だけいうと
無事、もともとの職種であるエンジニアに復帰している。
結局のところ色々あっても、自分が一番エンジニアを諦められなくて
戻ってきたというところである。
おかげで余計な迷いもなくなり、仕事を大切に思えるようになった。
それだけで色々なことが変わってくる。
大切なもののために頑張れる。だから行動が変わる。
そういった貴重な経験だったと今なら言える。
だから、今傷ついている人や頑張る理由が見つからない人の
少しでも参考になればと思い、自分の経験を伝えたいと思う。
まずは何で適応障害になったかということからはじめる。
<最初の転職>
そのきっかけは新卒で入社した会社の最終年から始まる。
当時、会社の大組織変更で開発部隊の中から選抜で先行開発チームを作るというものだった。それに私は抜擢された。
ここまでは嬉しい限りだった。
前年に完成車メーカーの内定を断り、会社に残ることを決めた矢先だった。
やる気に溢れる一方で、この組織変更は大失敗に終わる。
結果からいえば、この組織変更を踏み切った副社長は降格。
私をはじめ、多くの人間が会社を去った。暗黒期のはじまりだったようだ。
(詳しくは現在も会社にいる人間しか分からないが)
私の部署は、家庭の事情で全然会社に来ない上司と
仕事はできるが嫌われものの先輩といった私を含めた三人のチームだった。
上司が来なければ方針も決まらず、新しくできた部署からの試験の依頼は後回しにされることばかりで、仕事はろくに回らなかった。
その頃、まだまだプレゼン慣れしていない私の最初のプレゼンはボロボロ。
このままではいけないと多くの人に相談し、組織についても
助けを求めたが、結局大きく何かが変わることはなかった。
退社前に「評価を盛り返した。よく頑張っている」と言われたが
悲しいことに後の祭りとか感じることはできなかった。
こういった状況下で、私は裏切られたような気持ちが募り、自身の居場所を求めて転職する。
結婚もこの年で、新しい船出とその責任感から
海の近くに住める大手企業という一見幸せの道を歩みだしたように
新たな土地へと生活の拠点を移動する。
<新天地で待ち受けていたもの>
夢を抱いて舞い降りた新居は、海の近く。
潮風香るマンションでサーファーも多く、観光地でもある。
それはそれは楽しいプライベートだった。
一方、仕事はガチガチの古い日本企業。
名の知れた企業だけにここで安定した生活をと考えていたが徐々に色々な問題に突き当たる。
配属は研究実験部。
やりたいことど真ん中だと思った。しかし、設備は古く、社員の方々は平気でパワハラ発言を連発。直属の先輩は、冗談でなく何も教えてくれない人で、仕事を覚えようがないほどだった。
そんな中でも自分なりに道を開こうと努力したが、うまくいかなかった。なんでかというとこれを言われたと言えば多くの人が納得してくれる。
「所詮、転職組は使い捨てだから」
段々気付いてきた自分の頑張っている理由。
「頑張りたいんではなくて、この現実を受け止められていないんだ。」
そう気付いたゴールデンウィーク。
<休職>
五月病の意味が良くわかる休み明けだった。
1日出社したものの。
それ以降体調不良。
もう会社に行ける気がしなかった。
体調が悪かったら病院へいくが、行ったことがないのに行かないといけないと自分で分かった。
「精神科」
自分の判断力や思考能力の低下に頭痛など身に覚えがたくさんあった。
すべて耐えてきたけれど
今の環境が自分にあっていないと認めた瞬間にそれはすべて自分にのしかかってきた。
妻もいて
大切な仲間から離れて出てきた転職に失敗。
なのにここで働きたくない自分がいる。
そう思うことがなにより自分を苦しめたと今なら分かるが、その当時は文字通り「世界が終わった」と感じていた。
病院での診断は「適応障害」。
鬱と診断するにはまだ時間がかかるとのこと。ここから私の休職生活が始まる。
思えば酷い会社だと思った一方で、自分が弱いのではないかと思い、ぐるぐるぐるぐると思いをはせる日々。
外になんて出たくなかった。ベットに閉じこもっていた。
家の窓から外を見ても、人と目が合うのは嫌だった。
「自分は社会不適合者」
そんな思いを重ねるばかりだった。
このままではダメだと分かったいても
なかなか一歩踏み出せなかった。
<妻の支え>
妻が言ってくれたこと
「働かなくていいよ」
「やりたいことやりなよ」
嬉しいはずなのになかなか向き合えなかった。
でも、おかげで少しづつゲームくらいはするようになった。
精神科へ行くついでに、妻は私を買い物に連れ出してくれた。
今では笑えるけれど
お店の中も怖かった。
それくらい臆病になっている自分がいた。
「無理して働くことなんてないよ」
「世界には君を必要だって言ってくれる会社は山ほどあるよ」
と昔の自分に言ってあげたい。
それくらいの扱いだっただろうけれど
もはやあまり覚えていない。
思い出したくないのか、思考停止していたのかさえ、あやふやだ。
通院と妻の支えで、少しづつ一人で散歩に行ったりするようになる。
妻は昨年からこの年にかけて、管理栄養士の試験を受験し、見事合格。それまで私が養ってきた分の恩返しもあったのだろう。パートをしながらそばにいてくれた。
それが本当にうれしかった。
<徐々に見えてきた光明>
少しづつ自分一人で出歩けるようになってきたこともあり、海までランニングすることが日課となっていた。
そして海に毎度問いかける
「今の俺に何ができる?」
自信なんて全くといっていいほど無くなっていた。
「社会不適合者・負け犬・・・」
自分がする自分の評価はそんなものだった。
でも、自分がどこかあきらめきれていないことにも
気付いていた。
私は、自信のない自分を奮い立たせながら
内定を取得する。
外資系自動車部品メーカーだ。
条件もよかった。
これですべてちゃらにできると思った。
よく頑張ったと思った一方で、手に入れた自信が自分を迷わせた。
「これで本当に良いのか?」
「また同じことの繰り返しじゃないのだろうか?」
慎重になった私は、内定先の上司になるだろう人物と面談を実施。
この方はお世辞にも私と相性が良いとは思えなかった。
結局、休職していた会社を退社し、内定も断った。
なんて馬鹿なことをしたのだろうとも思いつつ
私は別の道を思い立つ。
「教員になろう」
<急がば回れ?塾の正社員>
私はもともと大学生のときに塾でアルバイトしていたこともあって
その伝手で学習塾を経営している会社に入社する。
同時に通信制の大学へ入学し、教員免許の取得を目指すことにする。
「エンジニアの次にやりたいことは教師になること」
そう言って新しい道へ歩みをはじめる。
内定を断っただけあって、多くのことに脅えていた自分にかつてのアルバイト先というのはとても働きやすかった。
理不尽なこともたくさんあったけれど
あれだけ責めた自分に居場所があるだけでも嬉しかった。
だから必死で頑張った。
そして仕事が楽しいということを思い出した。
<どうしても譲れないもの>
社会人として仕事に復帰して、しばらく。
かつての会社の先輩社員が遊びに来てくれた。
「今ドローンの会社で働いている」
「ベンチャーでめちゃくちゃだが面白い」
とても気になったが
エンジニアから離れた自分にその権利のない話だと思った。
でも、一方で自分の体重が減っていくことや
徐々に勉強があと回しになっていくことを感じる。
認めたくなかった事実。
「エンジニアに戻りたい」
内定蹴っておいて
大学まで入って
何を思っているのかと思った。
でも、体が一番正直だった。
気が付いたら10kgも痩せていた。
この時、思い知らされた。
「自分が一番自分をあきらめられていない」
「二番目にやりたいことは一生二番目」
「俺はやっぱりエンジニア」
頑張ればがんばるほど
エンジニアから離れていく・・・
気が付いたらもう転職しようと思っていた。
こんな休職経歴持ちのジョブホッパーに仕事なんてあるのかと思ったが
チャンスはゼロではなかった。
<またまた転職活動>
もちろん以前ほどやさしくはなかった。
書類は通りにくいし、「どうせすぐやめるんだろ」と面接で言われたこともあった。
それでも、完成車メーカーの最終面接までいったこともあった。(これは手応えがあったのに落ちたのは今の仕事への運命だと勝手に思っている)
適応障害のことを率直に伝えたら、親身になって話を聞いてくれた人事の人もいた。
世の中捨てたもんじゃないと思った。
そして結局、結論が出た。
「ドローンのベンチャーで勝負しよう!!!」
一番リスクがあるような選択なのも分かっていたが
それをしたい自分にもう迷いもなかった。
自分がどうしょうもないやつであることが
嬉しくもあった。
「エンジニア戻りたくて10kg痩せる奴なんて
そうはいない」
その思いだけ握りしめて、内定を掴んだ。
<ドベンチャーと成長>
ドローン業界はまだまだ未成熟で、自分より若い社員が偉そうにしていたりする。ベンチャーっぽくて良いじゃないかと思った。
プレッシャーもあった。
自信を取り戻すには時間もかかった。
不安はずっとつきまとった。
不安な時は、胸に手をおいて自分の脅えを確かめた。
いつも脅えていなかった。
「うん。大丈夫」
「どうせ逃げたくても、俺は自分のやりたいことから逃げられない」
そうやって徐々に過去を乗り越えていけるようになった。
<エピローグ>
そんなベンチャーで今も私は仕事をしている。
本当に色々なこともあるし、大変なことも多いけれど
すごく成長したエンジニアの自分に会えたと思っている。
やっぱり何かあったとき、私は迷わない。
散々迷ったので、覚悟が決まっている。
それはもはやアドバンテージになりつつある。
賭ける思いが違う。熱量が違う。
本気で選んだ選択だから頑張れる。
ちなみに以前の職種だったら関われなかった国関連のお仕事や消防、橋梁点検、宇宙系などびっくりするほどの企業と仕事をしていてちょっと嘘っぽいほどだ。
人生捨てたもんじゃないなと思う。
まだまだもっとこの可能性を広げたいとも思っている。
やればできることも分かってきた。
そんな私の経歴が参考になるかはわかりませんが
少しでも誰かの力になったらなと思い、この文章を終わることにする。
最後に辛い時期に支えてくれた人
最愛に妻への感謝で締めくくることにする。
ありがとう。